「ワークライフバランス」と一言でまとめると浅いのだが、僕の周りにも「ゆるく働きたい」という願望を持った人は本当に多い。
それ自体を否定するつもりはないのだが、時折、ハードワークが美化されたり、逆にそれを卑下するような発信が見受けられる。
表面的に見ると、
- ハードワークしか勝たん
- ワークライフバランスこそ正義
という二つの論調は対局にあるように思えるが、それは違う。
どちらが正しいかではない。
問題は、何時間働くかではなく、その時間が自分にとってどういう意味を持っているかなのだ。
以下のポストをしました。

元の投稿(X記事)は別の文脈で書いたものではあるのですが、引用してもらった方向に膨らませた上の投稿が少しヒントになりそう。
要するに「どちらも必要だよ」ってことで、「時にはハードワークが必要だし、メリハリが大事だよね」なのだが、それで終わらせるとそこで思考が止まってしまう。
もう一歩、考えてみて欲しいのだ。
僕は先日、数年前に作ったWebサイトの改修作業を行っていた。
それがだいたい6時間くらいかかった。
相手が法人だったり、あまりにも大幅な改修であれば追加料金を請求することもあるが、基本的には一度作ったWebサイトの修正は無償で請け負っている(だから紹介でしか受注しないようにもしている)。
なので、この“6時間の作業”に対する報酬はゼロ。
ただ、それで文句を垂れたり疲弊したりするかといえば、答えは完全に「NO」だ。
なぜか。
結論としては、その仕事をしている時間は、僕にとっては「遊び」みたいなものだからだ。
本を読む、ランニングをする、旅に出る、コーヒーを飲む、美味い飯を食う、映画を観る、子どもと遊ぶ、友人と話す。
それらをしているのと何ら変わりのない時間なのだ。
子どもの頃、「目が悪くなるからゲームは1日30分まで」と言われて育った。
なので、親元を離れてからは好きなだけゲームをできるのが幸せであり、不思議な感覚でもあった。
社会人になってから「Clash of Clan(クラッシュオブクラン)」というスマホゲームにハマり、仕事以外はほとんどそれに充てていた時期がある。
下品な言い方をすると、「村を育てて別の村を襲い金品を略奪するゲーム」なのだが、ゲームが進んでくると複数名のプレイヤーが集まってチームを組み、別のチームと戦争をするバトルゲーム的な要素も出てくる。
そうなると、割と高度な戦略ゲームである。
そのためにゲーム内のチャットで何時間も作戦を練り、「3分間の攻撃のために8時間を費やす」みたいなこともあった。
夢中になれば、時間が経つのなんかあっという間なのだ。
時間を忘れて没入できることであれば、それが仕事かそうでないかは関係ない。
そんなとき、時給換算なんてもってのほかで、ただ自分の「没入欲」を満たすために時間を使っている感覚がある。
もちろん、特定の何かに心を奪われて、やるべきことを放置してしまってはいけない。
ただ、外から見るとハードワークだが、本人にとっては「ただ遊んでいるだけ」「夢中になっているだけ」というケースは少なくない気がする。
また、それが回りまわって収入に繋がれば理想的ではないか。
今は「ゴリゴリ働いて高収入」よりも「ゆるく働いてそこそこ」のほうがウケが良い。
場所や時間に縛られず、カフェで1日2時間だけパソコンをカタカタ……みたいなやつだ。
ヒトはみな、いつもその「2時間」のほうにフォーカスしがちだ。
でも1日24時間で8時間寝るとして、その2時間を引いた「14時間」のほうが大事ではないか。
残った14時間で語学を習うもよし、家族と過ごすもよし、畑を耕すもよし、それこそゲームに注ぎ込むもよし。
どう使ってもよいのだが、別にそれが他人からは「仕事」に見えることでもよいはずではないか。
「好きなことをしている」という点では、野球を観ている時間や漫画を読んでいる時間と同じなのに、感謝されるしお金がもらえることもあるのだ。
こんなに面白いことはない。
逆に、こんなことも考えられる。
本を読むにしても、夢中で読み進むのと、義務的にいやいや読むのでは同じ時間を使い、同じ本を読んだとしても意味はまったく変わってくる。
ランニングひとつとっても、僕にとってマラソンは競技でしかなく日々のランニングはレースで1秒でも自己ベストを縮めるための手段であった。
なので、健康やリラックスのためにランニングをしている人とは走ることに使う時間の意味が違う。
これを仕事(対価として報酬が受け取れるものとする)に置き換えてみる。
会社員は時間の切り売りだとよく言われるが、その時間でお金だけを得るのと副次的に他のものを得るのでは相当違う。
例えば、「やりがい」だ。
僕の祖母は美容師であり、自宅のそばで小さな美容院を経営やっていた。
彼女は30年以上前にパートナー(つまり僕の祖父)を亡くしたが、年金だけで十分生活できるくらいの年金を受け取っていた。
なので働く必要はなかったのだが、60歳を過ぎてからも、数名のお得意様のためだけに美容院を開けて髪を切っていた。
そこで彼女が受け取っていたのはカットに対する報酬だけでなく、お客さんとの会話からのエネルギーや自分を必要とされている使命感(年を取ると馴染みの美容院以外は行きにくくなるらしい)から来る自己肯定感みたいなものもあったはずだ。
ただ、美容師が皆、同じ感覚でいるかはわからない。
僕は医療職として働いていたが、感覚としては「毎日8時間病院に行き、指示された検査をこなせば月30万くらいもらえる」くらいのものでしかなかった。
逆に、自分(や家族)のことを後回しにして患者の命を救うために日々奮闘している医療従事者がいるのも知っている。
これは医療に限らず、土木でも飲食でも、きっと同じはずだ。
というより、職種や仕事の内容には関係ない。
「ネットで稼ぐ」をやり始めて5年が経った。
サイト制作、ブログアフィリエイト、SEOライティング、Kindle出版、noteメンバーシップ、メルマガなど、いろいろやってきた。
お金のためだけにやる仕事もあったし、逆にお金が取れるものを無償で提供することもあった。
今年の1月に会社員(医療職だが)をやめて、フリーランス的に活動するようになったが、1週間ずっと「お金にならない作業」のために時間を溶かすことなんかざらにある。
会社員の頃は「平日8時間を会社に捧げる」というルールが決まっていて、つまり「お金のための作業」をすべき時間が明確に決められていた。
今思うと、自分の意志と関係なく、時間の使い方を決めてもらえるのだから楽だ。
仕事をやめたからには給料が減った分の収入を補填しなければならない。
ありがたいことに、SNSでつながっていた方が仕事を紹介してくれたり、クラウドソーシングサイトで長期の案件を受注できたり、というのが立て続けに起こった。
最近では、給料としてもらっていたものにだいぶ近い金額を安定して稼げるようになってきた。
ただ金額としては同じでも、その対価としてこちらが捧げる時間の意味が相当変わってきたように思う。
先日、とある企業のホームページにDM営業してみたところ好意的な反応があり、ビデオミーティングを経由して長期の企業コンサルをすることになった。
そして実は来週、そのクライアントに会いに京都に行くことになっている。
確かに契約書で交わした要件はオンラインで完結するが、直接会った方が関係構築はスムーズだし、今後のサポートの質も高まる。
別に相手から求められたわけではないし、だからこそ交通費も宿泊費もこちらもちである。
単純にお金のことだけ考えるとマイナスかもしれないが、これはどうしてもやりたい仕事であり、ワクワクが止まらないのだ。
これとは別件だが、海外を拠点に活動している団体宛てに企画書を作って提出して、いま審査中である。
この企画書にしたためた仕事ができることになっても1円にもならないのだが、それでも時間と(その対価であるべき)お金を注いでもぜひやりたいプロジェクトなのだ。
こんなことばっかりやっていては家のローンを払えないし、子どもに好きなおもちゃを買い与えたり習い事もさせられない。
だからこそ別で時間を捻出したり、メリハリが必要になってくるというわけだ。
当然、会社員+副業という形であれば、リスクというリスクは無く、一生安泰だった気がする(妻からはいまだにチクチク言われる)。
ただ、自分の活動を俯瞰しときに、「意味のある時間」の総量も濃度も前より良くなっている気がする。
僕の思想が正解なのかはわからないけど、見える景色は確実に変わっていて、ワークライフバランスに関しては「そんなに単純なものじゃないよ」と感じていたため、思考の記録として残しておきたい。
ワークライフバランスは、仕事を減らして生活を増やすだけの話ではなく、
自分の時間をどれだけ「意味のある時間」に変えられているかが重要なのである。
P.S.
この記事、かなり多くのテーマが入っているのでそれぞれを掘り下げたコンテンツを作るかもしれません。できあがったらメルマガで配布しようと思っているのであちらでお待ちいただければと思います。
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